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人々は情報の濁った海の中で感性が鈍くなっていく。人が感受することに安易になっていく中で、美術は沈殿しつつあるとはいえ、何か人に働きかけることはできないであろうか?

人がさらされている情報量は爆発的に増加した。
しかし人はその全てを自在に消費できるわけではない。

fig16

ピーター・ラージによれば、「最近30年間に生産された情報の方が、それ以前の5000年の間に生み出された情報よりも多い。毎日約1000冊の本が世界で出版され、印刷される知識の総量は8年ごとに倍増している」(『ミクロ革命再び』より)のだそうだ。 日本も例外ではない。むしろ、この傾向において抜きん出ている。20年の間に総供給情報量は倍増に近いペースで増した。 その時、私たちが注目すべきなのは、それをしっかり受けとめることができたかどうかだ。 結論からいえば、できていないのだ。総消費情報量はこの20年でも大きくは変わっていない。情報装備がいくら充実していっても、この供給と消費の差は広がる一方だ。 source16

人はそうした状況の中で鈍くなりつつある?
「手軽に得たい」症候群

fig17+18

情報量が爆発し、それを消費しきれない。 その中で人はどのようになっていくのだろう? 「人々の感性は鋭くなってきている」というのは表面的には社会的コンセンサスのようになっているが、実際に人々に訊いてみると、「昔の人の方が五感が強かった」に同意する人は7割弱も存在する。 また、文化の享受の仕方として、「苦労しても本物を」か「手軽に」かと問われると、4分の3の人々が「手軽」を望むと答える。 人はまだこの情報爆発時代においてしなやかになりきれていない。むしろ消耗的なムードが漂う。 美術が今の日本の社会で沈殿した存在であることは確かだ。情報爆発の中で人はより目立ち、アクセスしやすい情報に傾斜していくことになるだろう。だけど、その中で消耗した心に働きかけられる可能性はもうないのだろうか? source18

人々は情報の濁った海の中で感性が鈍くなっていく。人が感受することに安易になっていく中で、美術は沈殿しつつあるとはいえ、何か人に働きかけることはできないであろうか?

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