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本来、美術の世の中へのあらわれ方は様々だ。
人の生きる環境の全域で美術はダイナミックに生きる。

「美術というものは大事なものなのだから、みんなで保護しましょう(しなさい)」ともすれば美術のフィールドの中にいる者はそう考えがちだ。しかし、まつりあげられ、しまい込まれてもそれは人の役には立たない。そういうものはこれからの世の中ではますますマイナーな存在として、心の中で追いやられていく。 また、「美術というものは美術であるだけで価値がある」と盲信してしまうことは、美術の発展も妨げる。 もともと、美術というものは、人の営みと共にあり、その中で位置づけられるために、極めて多様なかたちをとってきた。例えば、ヴォイスの講義、応接室にかかっている絵、クリストの公聴会や建造現場、様々なパブリックアート、キース・へリングの玩具、データベースに入力された名画たち、ヒロ・ヤマガタのような量産アート、日展のような世界、マッキントッシュの家具などなど……。こういう時代にあっては、その多様性はより高まるだろうし、もっとそうしていかなければならないだろう。 この分析集をご披露する過程で、「語句の定義が難しい」と何度かぼやいた。「アート」と「アート的なもの」が混沌をなし、そこに人は「アート的な気分」で様々なものに目を止め、執着したりする。「全てはアートだ」ということになると、それは「アートという特定のものはない」ということにつながる。 「それでも、今日の社会の中で今日的で確かな役割を担っている『美術』というものがある」そういえるような環境を得ていきたいと思うのだ。

以上、増井祐子事務所による補足
(NiCAF出展時は、この文ではなく多様なアートシーンを切り取った写真を多数掲出した。本ページの冒頭および最後のメッセージのみ出展時と同様。)

「古来、美術は大切に保護されてきた。だから」ではなく……

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